2022.04.19

キルケゴールの日記、再読。

 

キリスト教の教え(デンマーク

敬虔な者、つまりは信仰を持って時間的な生を生きた者は、救いように与ることができる。

 

日記

 

進行とは内面性の無限の情熱と客観的不確かさとの矛盾をそのまま受け止めることにほかならない。いな、その矛盾そのものなのだ。もし私が神を客観的に見て把握できるのなら、私は信じてなどいない。だがまさしくそれができないからこそ、私は信ずることへと追い込まれるのだ。そしてこの信仰を貫き通すためには、私は客観的不確かさを眼前に見すえ、この客観的不確かさの「七万尋の深淵」の上を漂いつつ、しかもなお信じるという冒険に、絶えず身を曝さねばならないのである。

 

信仰とは情熱

 

キリストの死によって罪が赦されるということは真実である。だがその一方で、人間がそのようにして、まるで魔法にでもかけられたかのようにして、自分の古い関係から、つまりパウロがいうところの『罪の肉』(「ローマ信徒への手紙」七・二五)から、引き剥がされるということはない。人間は、自分が進んできた同じ道を戻らねばならないのだ。そのとき、罪は赦されているという意識が、彼の背筋を正し、彼に勇気を与え、そして彼を絶望から救うのであるー